おはこんばんにちは!ノボルです。
今回は、アドラー心理学の古典『嫌われる勇気』の続編に当たる本『幸せになる勇気』の内容について解説します。
『嫌われる勇気』をまだ読まれていないという方は、以下の記事で丁寧に解説したので、先に読むことをオススメします。
『幸せになる勇気』は、時代を100年先駆けたと言われるアルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめた「勇気の二部作」完結編です。
前作『嫌われる勇気』で示された幸福への道を、わたしたちは具体的にどのように歩んでいけばいいのか? 日々、アドラー心理学をどう実践していけばいいのか?という問いに本書は答えてくれます。
ふたたび幕を開ける、青年と哲人の哲学問答。あなたは、青年と共に理解の階段を登る〝勇気〟を、持っていますか?
悪いあの人、かわいそうなわたし
いかなる人間も、順風満帆な人生を歩むことはできません。
誰だって、少なからず悲しい出来事もあれば挫折もあり、悔しい仕打ちにも遭います。
それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだその出来事に縛られ、トラウマとしている人がいるのか?
『これは過去に縛られているわけではなく、その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているからです。さらに厳しい言い方をすると、悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」のつらさを忘れようとしているのです』と哲人は言います。
厳しい指摘ですね…。しかし本質をついている言葉だと僕は感じました。
そこで哲人は、カウンセリングでときおり使用する心を表す三角柱について言及しています。
三角柱は、正面から見ると、3つある側面のうち2面だけ見ることができます。
皆さんは、それぞれの面になんと書かれていると思いますか?
実は、一面には「悪いあの人」。もう一面には「かわいそうなわたし」と書かれています。
『カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始する』と哲人は言っています。自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。
カウンセリングに限らず、家族や友人に相談事を持ちかけるとき、自分がなにを話しているのか自覚するのは難しい。しかし、視覚化してみると、結局この「悪い人」と「かわいそうなわたし」の2つについてしか語っていないことが分かります。
皆さんにそんな心当たりはありますか?
この現実に対して、哲人はこう指摘します。
『われわれが語り合うべきことは、ここにはないのです。あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聞いてくれる人がいようと、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決にはつながらない』
ではどうしたらいいのか?
答えは、三角柱の隠れているもう一面に書いてあります。
そこには、【これからどうするか】と書かれてあります。
「悪いあの人」でも「かわいそうなわたし」でもなく、「これからわたしに何ができるか」を考えるべきだということです。
哲人はこう付け加えます。『われわれカウンセラーは、この三角柱を相談者にお渡ししてしまうこともあります。そして、「どの話をしてもかまいませんので、いまからしゃべる内容を正面にして見せてください」とお願いします。すると、多くの方が、自ら「これからどうするか」を選び、その中身を考えはじめるのです』
過去をさかのぼることでい感情を爆発させる、いわばショック療法的な他派のカウンセリングと違い、アドラー心理学では、建設的で科学的な、人間への尊敬に基づく、人間知の心理学を扱います。
・いつも「これからどうするか」を意識する
なぜ「賞罰」を否定するのか
アドラーは教育や子育てに関して、叱ってはいけない、ほめてもいけない、と賞罰を禁じています。
叱るのが良くないのはわかるけど、褒めてもいけないの?と思うかもしれません。確かに反感を買いそうな考えだと思います。では、なぜ賞罰は良くないのでしょう?
アドラーは、その理由として、『「賞罰」という手段は子供の問題行動を悪化させる行動である』と指摘しています。ここで、【5段階の問題行動】という考えを理解する必要があります。
第1段階: 称賛の欲求
段2段階: 注意喚起
第3段階: 権力争い
第4段階: 復習
第5段階: 無力の証明
問題行動の第1段階: 称賛の欲求
親、教師、仕事であれば上司、に向けて「いい子」を演じ、やる気や従順さをアピールする行動です。一見誰にも迷惑をかけておらず、生産的な活動に取り組んでいるように見えますが、実は「目的がほめられることだけになってしまい、誰からも特別視されなくなったら意欲を失う」という問題をはらんでいます。
結果として、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくことになります。
周囲の期待する「いい子」であろうとするばかりに、カンニングなどの不正行為に出てしまうのも、この段階の特徴です。教育者や親、指導者は、彼らの「行為」だけに目を向けるのではなく、その「目的」を見定めなければなりません。
そして、「特別」でなくとも価値があるのだと、教えていく必要があります。「いいこと」をしたときに注目を示すのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向け、その人の関心事に注目し、「尊敬」と「共感」を示すのです。
『尊敬とは、その人の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の人間であることを知る能力である』
アドラーと同じ時代に、ナチスの迫害を逃れドイツからアメリカに渡った社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉です。つまり、尊敬とは、その人がその人らしく成長発展していけるよう気づかうことなのです。
それでは、共感とはなんなのでしょうか?
この問いに対し、哲人はこう答えます。
『世間一般で考えられている共感、つまり相手の意見に「わたしも同じ気持ちだ」と同意することは、だだの同調であって、共感ではない。共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです』
わたしたちは主観から逃れることができません。そして当然、他者になることも できない。でも、他者の目に映るものを想像し、耳に聞こえる音を想像することはできます。
アドラーは、こんなふうに提案しています。
まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていた ら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できます。
たとえば、まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく、まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち、同じ人生を持っていたら?」と考える。つまり、自分が彼と同じ年齢で、彼と同じ家庭に暮らし、彼と同じ仲間に囲まれ、彼と同じ興味や関心を持ってい たらと考える。そうすれば「その自分」が、勉強という課題を前にどのような態度をとるか、なぜ勉強を拒絶するのか想像できるはずです。
このような態度を「共感」と呼びます。
問題行動の第2段階: 注意喚起
「いいこと」をしたのに褒められない、あるいは、そもそも「ほめられる」だけのことをやる勇気や根気がない。そういうとき、人は「ほめられなくても、とにかく目立ってやろう」と考えます。
授業中に大声を出したり、教師にしつこく食い下がったりするのは、この段階の行動です。ひとつ注意なのは、この段階の問題行動の目的は、あくまで「目立つこと」であって「悪くあること」ではないということです。
存在を無視されるくらいなら、叱られるほうがよっぽど良い。特別な地位に置いてほしい。それが彼らの願いです。
この段階までも子供たちは、シンプルな原則に従って行動しています。「尊敬」によって、特別である必要はない、そのままで十分存在価値があると伝えていけばいいのです。
問題行動の第3段階: 権力争い
この段階で、彼らの目的は「権力争い」に変わります。
誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。戦いで勝利を収めることによって、自らの「力」を誇示しようとします。一言でいうと、「反抗」です。親や教師を、口汚い言葉で罵倒し挑発する。万引きや喫煙に走るなど、公然とルールを破ることもあります。
一方で、消極的な子供は、「不従順」によって権力争いに挑んできます。親や教師から何を言われても、勉強や習い事などを拒絶する。本当はやりたくないわけではなくとも、「不従順」を貫くことによって自らの「力」を証明しようとします。
この段階の問題行動に対してできることは、すぐさま彼らのコートから退場することです。法に触れる問題であれば、法に従った対処が必要です。ここで、叱ったり、腹をたてたりしてはいけません。なぜなら、そういった対応を取ることで権力争いというコートに立ってしまい、彼らの思う壺だからです。
問題行動の第4段階: 復讐
権力争いを挑んだのに、勝てなかったり、特権的な地位につけない。そうして戦いに敗れた人は、いったん引き下がり「復讐」を画策します。
称賛の欲求、注意喚起、そして権力争い。こららの問題行動の根底にあるのは、「もっとわたしを見てほしい」という愛を乞う気持ちの表れです。ところが、そうした愛の欲求が満たされないとわかると、人は一転して「憎しみ」を求めるようになります。
わたしを愛してくれないんだな。わかった。だったら、いっそ憎んでくれ。憎悪という感情の中でわたしに注目してくれ。そう考えるようになるのです。
この段階の問題行動にできることはありません。彼らの目的は「あなたへの復讐」なので、彼らへ手を差し伸べるほど、復讐の機会が来たとばかりに行動をエスカレートさせてきます。
こうなったらもう、利害関係のない他の教師や専門家などの第三者に頼るしかありません。
しかし、復讐よりももっと厄介な、最後の段階があります。
問題行動の第5段階: 無力の証明
ここはひとつ、自分自身のこととして考えてみてください。
「特別な存在」として扱われようと、ここま でさまざまな行動を取ったものの、どれもうまくいかない。親も教師も級友も、憎むことさえしてくれない。学級にも 家庭にも、自分の「居場所」を見出せない。…あなただったらどうしますか?
きっと、全てをあきらめるでしょう。なにをやっても認めてもらえないのですから。
親や教師が、学校での態度や勉強などに関して、事あるごとに介入してくる。だったらいっさい構わないでほしい。その「これ以上わたしに期待しないでくれ」という思いが「無能の証明」につながります。 人生に絶望し、自分のことを嫌いになり、自分はなにも解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能な のだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。
これ以上傷つかないために。
そこで彼らは、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとします。第5段階に入った子どもは、親や教師が手を差し伸べようとすればするほど、より極端なやり方で「無能の証明」を図ります。残念ながら、教師や親にできることはなく。専門家に頼るしかありません。無能の証明をはじ めた子どもたちを援助していくことは、専門家にとってもかなり困難な道だと哲人は言います。
ただし、いわゆる問題行動の大半は、第3段階の「権力争い」にとどまっています。そこから先に踏み込ませないためにも、教育者に課せられた役割は大きいのです。
なぜ「賞罰」はダメなのか
5段階の問題行動とその目的をふまえると、先ほどのなぜ賞罰がダメなのかという問いの答えが見えてきます。
「ほめること」は、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない。罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」という第一段階【称賛の欲求】につながる。また、「ほめる」という行為は、能力のあるものが、能力のないものに下す評価であり、その目的は”操作”です。そして、それは依存や従属につながります。
さらに、「叱ること」は、「ほめられなくても、とにかく目立ってやろう」という第2段階【注意喚起】を引き起こし、「戦いを挑み、自らの力を誇示する」という第3段階【権力争い】につながり、最終的に第4段階、第5段階と問題行動を悪化させる可能性があります。
あくまでも、わたしたちのやるべきことは、彼らの「目的」に注目し、彼らと共に「これからどうするか」を考えることなのです。
・他者に「尊敬」と「共感」を寄せる
・子供や生徒の「目的」に注目し、「これからどうするか」を共に考える
競争原理から協力原理へ
「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。他者がほめられれば悔しいし、自分がほめられれば誇らしい。いかにして周囲よりも先にほめられ、たくさんほめられるか。さらには、いかにして先生や親、リーダーの寵愛を独占するか考えるようになります。
こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。
そして、次第に、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」といったライフスタイルを身につけていくになります。
当初、「完走する」や「前よりも早く走る」だったはずの目的が、「この人に勝つ」という目的にすり替わってします。盟友だったはずのライバルが、倒すべき敵に変わってしまう。そして、勝利を巡って駆け引きが生まれ、場合によっては妨害や不正行動につながってしまう。
勝利が終わったとしても、ライバルの勝利を心から祝福することができず、嫉妬や劣等感に苦しむことになります。
その結果、教室や職場が、仲間の足を引っぱったり、他人の手柄を横取りしたり、自分だけが認められようとリーダーに娼を売る場所になってしまう。
今この記事を読んでいるあなたの学校や職場でも、そうした光景を目にしたことはありませんか?
そんな事態を招かないためにも、学校や会社などの組織は、賞罰も競争もないほんとうの民主主義が貫かれていなければならないのです。賞罰によって人を操作しようとする教育は、民主主義からもっともかけ離れた態度です。
真に民主主義的である共同体とは、「競争原理」ではなく「協力原理」に基づいて運営される共同体です。
つまり、他者と競争するのではなく、他者との協力を第一に考える。もしも自分の所属する学校や職場が協力原理によって運営される ようになったら、そこにいる人たちは「人々はわたしの仲間である」というライフスタイル(世界観)を身につけてくれるでしょう。
そのためにも、一人一人が周りの人と対等な「横の関係」を築いていくことが大事になります。横の関係が広がれば、競争原理がなくなっていき、次第に「競争原理」に基づいた共同体が育まれていきます。
・縦ではなく横の関係を築く
・競争原理ではなく協力原理に基づいだ組織作りをする
与えよ、さらば与えられん
アドラー心理学では、徹底して「人間関係」を問います。
前作「嫌われる勇気」では、「すべての悩みは、人間関係の悩みである」と述べられていますが、その言葉の背景には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されています。
同じく「嫌われる勇気」で説明されていますが、われわれは幸せになるために、「人生のタスク」に立ち向かわなければならないのでしたね。
1. 仕事のタスク: 距離や深さという観点からもっともハードルが低く、他人の関係に戻れる
2. 交友のタスク: 強制力の働かない、踏み出すのが難しい関係
3. 愛のタスク: 恋愛関係や家族関係といった深い関係。束縛してしまうと破綻する
人生のタスクに踏み出さない限り、共同体に「居場所」を見出すこともかなわないとアドラーは言っています。
そして、人生をタスクを達成していくために、われわれは他者と、銀行の貸し借りような「信用」に基づくのではなく、一切の条件をつけない「信頼」に基づいた関係を築く必要があります。そう意味で、交友・愛のタスクが「信頼」の関係である一方で、仕事のタスクは「信用」の関係であると言えます。
そう聞くと、仕事のタスクは大して重要ではないと思ってしまいますが、アドラーは、「仕事」を依然として大切な人生のタスクだといっています。
それは、われわれ人類が「分業」という画期的な働き方を手に入れたことに起因します。
強靭な体も鋭い牙も持たなかったわれわれの祖先は、厳しい自然を生き延びるために、それぞれの強みを生かした役割分担をし、極めて効率的な分業システムを生み出しました。料理をする者、武器を作る者、狩をする者、畑を耕す者…といった風に。
そして、これを現代に当てはめると「仕事」ですよね。食っていくためには、多少嫌な人とでも「仕事」をしなければならない。個人的な好き嫌いは関係なく、その人を信じざるを得ない。それが、仕事のタスクが「信用」の関係である所以です。いかなる仕事にも優劣はなく、社会にとって必要な役割です。淘汰されずに残っているということは、なにかしらの価値を有しているということなのですから。
一方で、交友や愛のタスクは「信頼の関係」です。つまり、無条件で相手を信じ、信頼を寄せなければ築くことのできない関係です。
そのために、われわれは、心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。他者からの尊敬を待つのでは なく、自らが尊敬を寄せ、信頼を寄せなければなりません。心の貧しい人間になってはいけないのです。
ここで、哲人は聖書の言葉を引用しています。
『求めよ、さらば与えられん』
「与えてもらうこと」を待ってはならない。心の物乞いになってはならないということです。
先にこちらから与え、最大限の信頼と尊敬を相手に示す。そうすれば、相手からも与えられるのです。
・相手を無条件に信頼する
・与えられるのを待つのではなく、こちらから与える
・相手に最大限の信頼と尊敬を示す
愛する人生を選べ
「愛のタスク」は、意志の力によって、何もないところから築き上げるものであるため困難である、とアドラーはいっています。「愛」というと、ガラスの靴を履いたシンデレラが王子様と結ばれるまでの物語というイメージがありますが、一方でアドラーは、映画のエンドロールが終わったあと、つまり、二人が結ばれた後の「関係」に注目しています。
そして、わたしたちは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けています。しかし、ふたりで成し遂げる課題、つまり「愛」については、教育を受けていません。
たとえば、寝返りさえ満足に打てなかった赤ん坊が、二本の足で立ち、歩きまわれるようになること。これは誰に肩代わりしてもらうことができない「ひとりで成し遂げる課題」です。
これに対し、仕事は「仲間たちと成し遂げる課題」です。一見ひとりで取り組んでいるような仕事、たとえば 画家のような仕事であっても、そこにはかならず協力者がいます。絵筆や絵の具をつくる人、キャンバスをつくる人、 イーゼルをつくる人、そして画商に購入者。他者とのつながり、また協力を抜きにして成立する仕事は、ひとつもありま せん。
では、「ふたりで成し遂げる課題」をどうやって達成するのでしょうか?
主語を「わたし」から「わたしたち」に切り替えることです。というのも、愛とは「わたし」からの解放、つまり自己中心性からの脱却であるからです。
子供は、己の「弱さ」を武器に大人のコントールします。いつでも排泄や食事の世話をしてもらえる、泣けば駆けつけてくれる、いわば家庭という王国の独裁者のような状態です。これは、子供に限ったことでありません。多くの大人も、自らの不幸、弱さ、トラウマを武器に、他人をコントロールしようとしています。
いつまでも世界の中心に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部だと了解しなければならない。これが「自己中心性からの脱却」の意味するところです。
そして、たったふたりから始まった「わたしたち」が、やがて共同体全体に、そして人類全体にまで及ぶ。それが【共同体感覚】です。
だから、わたしたたちは、相手がどう思っているかなど関係なしに、こちらから他者を愛していく必要があります。愛してくれる誰かが現れるのを待ってはいけません。
『他者から愛されることは難しい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍も難しい課題である』
わたしたちは、他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
世界はシンプルであり、人生もまた同じである、アドラーはいっています。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」ともいっており、そこでは、「なんでもない日々」が試練となるのです。
・他者を愛する
・意識を「わたし」から「わたしたち」に切り替え、ふたりで成し遂げる課題に取り組む
・なんでもない日々に挑戦する
最後に
かなり長い記事になりました笑
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます!
この記事が、少しでも皆さんの参考になれば、それに勝る喜びはありません。
アドラーは、とてもシンプルなことを言っています。
『幸せになりたければ、自らを受け入れ、他者を無条件に信頼し、そして貢献せよ』
ただ、いうは易し行なうは難し、ということわざがあるように、実践するのはとても難しいです。アドラーの思想に到達するまでには、長い長い道のりがあるのでしょう。
僕は、【嫌われる勇気】がキッカケでアドラー心理学を知りました。そして、その思想に深く感化され、今の僕にとっての実質的な指針となっています。
最後まで読んで頂きありがとうございました(o^^o)
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